沖新田88か所めぐり、68番の位置の不思議

↓300年記念史

↓68番のお堂

沖新田88か所めぐりのうち、西大寺金岡郵便局近くの墓地の北にある68番だけが、「新田」に関係ないところのように思え、なぜここにお堂があるのだろうか、と不思議です。
まず、大まかにですけど、関係位置の確認です。旭川百間川、吉井川に挟まれた岡山市の南部(およそ、県道西大寺線より南)が今回話題にする地域です。およそですが、同地域の国道2号線(バイパス)の北側で、旭川百間川の間に倉田新田(1679年)があります。国道2号線とブルーハイウェイのインターチェンジのあたりを含む南北約4kmくらい、その南半分が沖新田に食い込むような形であるのが金岡新田(1660年)、残りの、およそ国道2号(バイパス)の南に沖新田(1692年)があります。
沖新田88カ所巡りは、「沖新田開墾三百年記念史」でとりあげられています。江戸時代の版木が九蟠の鶴海茂さん(故人)の研究で明らかになり、その後、現在地を調べ地図上に記したものが同史に収められています。それによると、およそ西北端が1番、その後、沖新田内を南北に移動しながら全体としては東へ進みます。62番が九蟠港近く(東南端)になります。堤防に沿って少し北へ、金岡新田の南端あたりをめざし西進、金岡新田の東辺をなめるように北上し、「開」で67番。沖新田東西之図ではこのあたりが沖新田の東北端になります。その後、直線にして約700m北上し68番に到達。この地は東西之図ではもともとの金岡の地のように見えます。その後西南方向へ金岡新田内の69番を通り、西北へ針路を変え、70番(沖新田内)に至る。国道2号(バイパス)の北へ出て砂川土手を西へ進み、百間川との合流地点近くで川を北へ高浜新田で2カ所、百間川を西へ渡り、倉田新田の北辺を山型をなぞるように西へ進み、次第に南下し、現在の平井交差点(国道2号バイパスと岡山港への道の交差点)の南西で結願となっています。「延命講」と刷った字が見える同史資料(1850年ころ?)に名を連ねる人は、大部分が沖新田で、金岡新田が数名などとなっています。
68番の位置は、沖新田、金岡新田に含まれないのに、沖新田88か所のひとつとして、この場所へお堂を設置する特別の理由があったのか、沖新田ができてから150年以上経過し人々の地理があいまいになったのか、東西之図の地域表示が違っていたのか、里程や道筋の都合か、などなど色々な想像を思い浮かばせる存在です。もし68番が、沖新田・金岡新田と、金岡との接点ですよ、というような意味で設けられたのなら、後世になって土地の区切りを探しているTAKAのような存在を助けるために、などと思ってしまいます。さて、68番のお堂とその位置は、どういうものなんでしょう。倉田新田などの巡礼所が「新田」の地域内かどうかなど、実際に見ることも大切かも知れません。ほかにも何か資料がないか探してみたいと思います。