「九蟠村勢要覧」(岡山市東区西大寺)


「九蟠村勢要覧」で検索したらヒットがありませんでした。それで、これは書いておかねば、と思いこの記事をつくっているところです。
およそ「菊判」程度の大きさで、41ページ建。1888年「九蟠、豊田両村が合併して九蟠村となつて以来六十四年の歴史を閉ぢて」(「九蟠村勢要覧」緒言)、1953年2月、旧西大寺市成立時に他の町村と対等合併することになったことが記してあります。「閉村記念の一端に村内隈なく御配り申上げます」(同前)となっていますので、旧九蟠の各家庭にはきっとあることだろうと思います。
この冊子、九蟠の鶴海茂さん(故人)の所有物でお借りしてきました。
「先年の南海震災で役場庁舎が倒潰した際古い書類が散逸し」(同前)たということもあり、この冊子からTAKAが興味ある「金岡の南限」を九蟠側から探る手がかりは見つかりませんでした。

この冊子には、役場(写真上)、村議会議員の集合写真、役場吏員の集合写真が収めてありました。
1888年明治21年にあたります。本日お伺いした山口資郎さんが、「開」が金田と金岡に村別れしたことをお話し下さったのは、この時期に関連するのではないかと想像します。同じく「開」のことを金田のコイズミさんにお尋ねしたら、ご自宅から用水沿いの北を指し、「樋門の北側」ということでした。金田に住む方にとっての「開」が金岡の「開」と別にあることも確かなことのようです。ひょっとして「開成小学校」の「開」はこれに関係するかと想像したのですが、同校サイトには沿革の意味が別のものであることが掲載されていました。

なお、「九蟠村勢要覧」は、「九蟠村史」(岡山市立公民館九蟠分館、1971年、53頁)の底本となったのではないかと、同村史を見て思いました。