「金田」=「金岡新田村」(岡山市東区西大寺)

干拓地にあてた地名。
西大寺の南部が江戸時代の干拓で造成されたことはすでに多くの人が知っているところです。TAKAの疑問は、現在の地図に落とした場合、どこからどこがそれまでの陸地でどこが干拓地なのかという、ものです。
少し手がかりがつかめました。「西大寺物語」(青江文次著・平成12年)に次の説明がありました。

金田地区は、江戸時代には金岡新田村といわれ、干拓によってできた村である。明治になり、町村制により村名を決める時、上下の二文字を取って金田村とした。

(「西大寺物語」47ページ、「江戸時代に干拓で開ける 金田」の項から抜粋)
つまり、干拓地=金田だということのようです。古地図(岡山市立中央図書館蔵、Net上に公開)と現在の地図を合わせてみようと思ってやり始めたもののうまくいかず、手がかりを探した結果、「西大寺物語」が簡明に教えてくれた、という具合です。
考えてみれば、理にかなっています。測量精度が十分でなかった頃の地図と現在の地図を重ねて糸口を見つける、という方法より、あっさり土地のできた理由から考えればこたえが見つかり易かったというこでしょう。
西大寺物語」に紹介された「金田」の干拓は以下の図のとおりです。

下の図は、goo地図を下敷きにさせてもらって、「西大寺物語」に示された干拓の位置(上の図)を赤色で重ねたものです。

結局、「金田」はすべて干拓地、ということになるみたいです。かなり正確に地図上の位置がわかりますので、現地を歩いてみると何かわかるかも知れません。今回の図では南側がハッキリわかりませんが、「金田」の地名は南に続きます。どこまでなのか、そのまた南はどうなのか、さてさて、興味は尽きません。
干拓」の歴史は長く、今回取り上げた干拓は、有名な「沖新田」より30年早い着工です。